漫画界の異才・楳図かずおは2024年に他界しました。
楳図かずおは教育者一家に生まれ、母の導きで絵の世界に足を踏み入れました。
彼の人生は創作への純粋な情熱であふれていました。
どのような家族構成だったのでしょうか?
実は生涯独身でした。
そこでこの記事では、
楳図かずおが独身だった理由は?
について迫ってみたいと思います。
楳図かずおが生涯独身だった
楳図かずおさんは1936年、和歌山県伊都郡高野町に生まれました。
父方は一族全員が教員という家系で、父・公雄も小学校教員として奈良県の山間部を転々としました。
3歳から6歳までを過ごした奈良県宇陀郡曽爾村では、父から地元の伝説や民話を聞かされて育ち、後の創作の糧となりました。
母・市恵は、幼い息子に絵を教え始めました。
その好奇心から始まった母子の絵画レッスンは、楳図さんの人生を決定づけることになります。
学校でも授業そっちのけで絵を描き続け、小学5年生で手塚治虫の『新宝島』に出会い、漫画家になることを決意しました。
楳図かずおが独身を貫いた理由とは
楳図さんは生涯、結婚することはありませんでした。
テレビ番組では「女性とお付き合いしたことは一度もない」と語っていました。
ここからは楳図かずおさんが創作に没頭したの独特な生活について見ていきましょう。
楳図かずおの異色の私生活
東京都武蔵野市吉祥寺に楳図かずおさんの自宅はありました。
外壁が赤と白のボーダー模様という異色の建物です。
楳図さん自身、いつも赤と白のボーダーの服を着ていますから、この「まことちゃんハウス」はまさしくシンボル的な建築物です。
近所から訴訟を起こされたのをきっかけに、楳図さんはここから別の場所に引っ越しています。
*「まことちゃんハウス」についてはこちらの記事に詳しく書きました。
楳図かずおさんは閉所恐怖症気味でした。
自動車免許も持たず、都内は主に徒歩で移動していました。
ですから「吉祥寺の妖精」と呼ばれていたりしました。
そんな独特な生活スタイルは、彼の創作活動と切り離せないものでしたが、結婚生活を送ることは難しかったのではないかかと推測されます。
楳図かずおを形作った家族構成:父、母、弟
ではここから、楳図かずおさんの家族構成について見ていきましょう。
父は教育者でありながら、囲碁の名手としても知られました。
奈良県代表として大会に出場するほどでした。
タレントの高島忠夫の父とは囲碁友達だったという逸話も残っています。
また母の何気ない絵画指導が、楳図の人生を決定づけました。
幼少期から非凡な才能を見せ、母の教えは楳図さんの芸術性の礎となりました。
楳図かずおさんには7歳年下の弟、良雄さんがいます。
弟の良雄は広告代理店大広の社員として活躍。
兄の才能を理解する良き理解者として、アニメの主題歌の作詞を依頼するなど、良好な関係を保っていました。
かずおさんが独身でいられたのも、仲の良い弟さんがいたからかもしれませんね。
楳図かずおは結婚せず:独身で芸術に捧げた生涯
では楳図かずおさんの漫画家としての功績をふりかえってみましょう。
楳図さんはホラー漫画の第一人者として知られますが、その作品は恐怖ものだけではありません。
SF、ギャグ、時代劇までジャンルは様々です。
1995年に腱鞘炎で休筆するまで、精力的に作品を発表し続けました。
しかも楳図さんは漫画だけでなく、タレント活動や音楽活動も展開。
テレビのバラエティ番組でも赤と白のストライプの衣装なのがすごいですよね!
さらに2014年には映画監督としても活躍するなど、その創造性は様々な分野で開花しました。
2021年には26年ぶりとなる新作漫画の発表を予告。
88歳で亡くなる直前まで、新作の構想を練り続けるなど、創作への情熱は生涯衰えることはありませんでした。
楳図かずおが独身な理由は創作への意欲が強すぎたから:おわりに
楳図かずおさんは生涯独身でしたが、決して孤独な選択ではありませんでした。
それは芸術への純粋な愛や創作意欲の強さゆえのものだったのではないでしょうか。
父や母から得たホラー物語や美術への飽くなき探求心が常に楳図かずおさんの中にあったのです。
また弟さんと仲のよい生涯だったようです。
彼の異色の人生は、まさに一人の芸術家の真摯な生き様を物語っています。
ご冥福をお祈りいたします。