2024年11月15日、三笠宮妃百合子さまが101歳でご逝去されました。
昭和16年(1941年)にわずか18歳で皇族の道に入られました。
その後、東京大空襲による宮邸焼失、防空壕での生活、戦後の混乱期を乗り越え、5人のお子さまを育てられました。
名門・高木子爵家の令嬢から三笠宮崇仁親王妃へ。
戦前・戦中・戦後を生き抜いた百合子さまの若き日々を映像とともにたどっていきましょう。
若き百合子さま:名門華族・高木家に生まれて

大正12年(1923年)6月4日、東京・赤坂の高木子爵邸で、百合子さまは華族令嬢としてお生まれになりました。
生家の高木家は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武家の名門です。
父・正得さまは昆虫学者として知られ、母・邦子さまは入江為守子爵の令嬢でした。
母方の入江家は、中世の大歌人・藤原俊成や藤原定家を祖先とする歌道の家です。

百合子さまは4人姉妹の次女で、姉の衣子さま、妹の桃子さま、小夜子さまとともに、学問と芸術が息づく環境で育ちました。
昭和3年(1928年)、百合子さまは5歳で女子学習院幼稚園に入園されました。
以後13年間、学習院で過ごされます。
礼儀作法はもちろん、文学や音楽にも親しまれ、豊かな感性を磨かれました。
三笠宮崇仁親王さまとのご成婚:若い頃の画像

昭和16年(1941年)に百合子さまの人生に大きな転機が訪れます。
大正天皇の第四皇子である三笠宮崇仁親王さまとのご婚約が内定したのです。
当時、日米関係は緊迫の度を増していました。

同年10月22日、結婚の儀が執り行われましたが、戦時下ということもあり、式は簡素なものとなりました。
それでも素晴らしいお衣装ですよね。

モダンな洋装もお似合いです!

新婚生活が始まって間もなく、三笠宮さまは軍務につかれました。
百合子さまは留守を守りながら、夫君の学問を支えました。

三笠宮さまが中国語を学ばれる際は、教材のレコード操作を担当したそうです。
深夜まで付き添われることも珍しくありませんでした。
仲の良いご夫婦のようすがうかがえるすてきなエピソードですね。

1950年にアメリカ博に行かれた時のスーツ姿も、キリっとしていてステキですね。

この上の画像は1956年にスリランカにご夫妻で行かれた時のものです。
日本のお着物をお召になって、国際交流なさいました。
母としての三笠宮百合子さま【画像】

5人の子供たちの母として
昭和19年(1944年)4月、第一女子の甯子(やすこ)内親王さまがお生まれになります。
ですが戦局は急速に悪化していきました。
昭和20年(1945年)5月、東京大空襲で青山東御殿が焼失。
1歳の甯子さまを抱きしめ、防空壕での生活を強いられました。
華族のお嬢様としてお育ちになった百合子さまにとって大変お辛い日々だったと想像されます。

戦後、三笠宮家は神奈川県葉山町一色の御仮寓所へ移られます。
混乱期にもかかわらず、百合子さまは次々と子宝に恵まれました。
昭和21年に寬仁親王さま、23年に宜仁親王さま、26年に容子内親王さま、29年に憲仁親王さまがご誕生。
5人のお子さまの育児に励まれる日々が続きました。

この上の画像は、ご家族で軽井沢に避暑に行かれた時のものです。

こちらのお着物の柄もとっても素敵ですね。
内助の功と社会貢献

百合子さまは子育てとともに、三笠宮さまへの内助の功もめざましいものがありました。
三笠宮さまはオリエント研究家としても知られていました。
東京大学で歴史学を学ばれた際、百合子さまは三笠宮さまが公務で出席できない講義のノートを友人から借り、夜遅くまで写し取られました。

後年、「時間に追われながらも充実した毎日でした」と回顧されています。
また、昭和23年(1948年)、百合子さまは母子愛育会の総裁にご就任。
戦後の混乱期、母子の健康増進に心を砕かれました。
ご自身の育児経験を活かしながら、60年以上にわたってこの重責を務められたのでした。
三笠宮百合子さまのご逝去【おわりに】

三笠宮妃百合子さまは2024年11月15日午前6時32分、入院先の東京・聖路加国際病院で老衰のため、101歳でご逝去されました。
お孫さんの三笠宮家彬子さまは英国訪問中でしたが、予定を途中で切り上げて帰国されました。

百合子さまは18歳で皇族妃という重責を担われました。
ですが戦中・戦後の激動期を、凛として生き抜かれました。
家族への深い愛情と社会貢献への熱意をのこして旅立たれたのでした。
ご冥福をお祈り申し上げます。
*新しい時代の皇族、悠仁さまの進学についてはこちらの記事もご覧ください。
